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東静岡駅 の記憶 [JITOZU_施設]

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参照MAP
写真は、東静岡駅改札付近だ。
島式1面2線の駅にしては、不釣り合いな構えであるが、これは近隣にある静岡県コンベンションアーツセンターのイベント時の混雑を想定したとのこと。


このコンベンションアーツセンターは、東海道新幹線の下り列車の場合静岡駅到着前に左手に見える建物である。とても主張の強い外観は、まるで巨大遺跡の様だ。


参考 コンベンションアーツセンターの様子


設計は磯崎新氏。上記サイトでは、ファーサイドの一部は、新幹線からの見栄も考慮されたとのことで、そう言った点では成功しているのかも知れない。個人的には、もう少し環境に佇んでいてほしいと思う。


さて、以前、所用にて当駅からタクシーに乗った際、如何にも多前歴のある運転手さんから聞いた話がある。


東静岡駅一帯は、かつて水害があり大変だったとのこと。その一つが、
七夕豪雨と呼ばれる豪雨で、人の腰ほど浸かったようだ。


実は、このタクシーの運転手さん、かつてトラックの運転手をしており、その頃に稼いだお金を投じ、ローンみ組んで家を購入したばかりだったのだ。それからというもの、夜に静岡-東京を往復、昼に静岡-大阪を往復するなど2倍働いてお金を返したとのこと。


たった10分の乗車で、こんな歴史を聞かせて頂けるなんて思いもよらなかった。


最新建築も良いけれど、歴史の伝承も大切だと感じた、ある1日の出来事であった。


京急 空港線 の 以前と以降 [JITOZU_施設]

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参照マップ
写真は、天空橋駅に向かう地下道だと思わう。青いタイルが独特な世界を醸しているのだが、これは、空のイメージを表現したものらしい。


青いタイルは地下駅である当駅のホームにまで続いている。私が初めてこの駅を訪れた時は、タイルの鮮やかさと蛍光灯反射が視覚を占領し脳天がクラクラしてしまった。
そして、あまり広くない当駅のホームを快特列車が高速で通過していくわけだけど、その時は、ちょっとした身の危険を感じてしまった。



最近、駅に青色灯、飛び込み自殺8割減 東大分析という記事が話題になったが、
そう言えば天空橋駅の照明も青っぽかった記憶がある。しかし、あれは、私にとってはトランス状態を促がしていると感じてしまう。あくまで、主観ですが。。


さて、当駅に関連して今回取り上げたいのが、穴守線だ。


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写真は、天空橋駅の改札を出たところに掲げられているレリーフだ。穴守線の電車とある。穴守線は、京急空港線の悲願の歴史の序章であった。
その歴史は、ネコのシュレーディンガーさんのサイトに詳しい。


地下延伸以前は、戦時休止や米軍による空港接収の影響で貨物転用。京急返還後は再三にわたる空港への延伸も、お役所から門前払い。しかし、モノレールによる輸送力不足を補うため、ようやく認可が下りたのが98年ということらしい。


そして今、大田区を中心とした蒲蒲線構想が動き始めている。


先のレリーフには、寄贈元として京急建設、東急建設の名前があるが、そこから、蒲蒲線当事者の京急、東急の並々ならぬ気迫を感じるのは、私だけだろうか?


ということで、まだまだ穴守線界隈から目が離せないですね。


六甲ケーブル と アール・デコ の関係 [JITOZU_施設]

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参照MAP

写真は、六甲山ケーブルの山頂駅の階段で撮られたものの様だ。
私はよく知らなかったのだが、この建物は近代化産業遺産にもなっているアールデコ様式の美しい駅とのこと。

参考:近代建築watch

この写真からは、建物の美しさを感じる。


そもそも、アールデコとは何だろうか?"装飾を排した直線的なデザインで、幾何学模様を取り入れる"などと言われる表現様式だ。日本における、アールデコの有名建築は、旧朝香宮邸や、山の上ホテル、自由学園明日館と言われる。
ちょつと一般人の手には届きにくそうだ。


そんな様式を駅舎のデザインに取り入れるとは、どの様なことなのだろうか?六甲ケーブル、山頂駅は、1932年に開業したそうだが、この時代は日本でもアールデコ様式が隆盛を極めた時代だ。


そこで思い出すのは、(私だけかもしれませんが。。)一畑電鉄の出雲大社前駅である。
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(写真は、2009年ごろ著者撮影)

こちらは1930年開業で、奇しくも同年代の建築だ。さらに東武浅草駅も1931年開業。
こちらもアールデコだと言われている。
参考:街並みのチカラ


これらの駅の共通点は、いずれも終点であり始点であること。
そこはまた、有馬温泉の出入口であり、出雲大社前、浅草は寺社門前で多くのお客様が行き交う場である。その見せ場の印象付けとしてアールデコが選ばれたのではないでしょうか?
それは、また、アールデコが大衆文化から好まれる様式であることの、一つの証明と思うのだが。



夏と言えば 伊豆熱川駅 [JITOZU_施設]

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参照MAP

伊豆急、伊豆熱川駅のホーム上から見た、
山側の景色だ。何の変哲もない景色に見えるが、いつもは写真中央の温泉塔から、モクモクと湯気が上がっている。真夏には、それが暑さを増幅している気がする。


そしてこの地は、太田道灌により発見されたと言われている。なんとも、歴史ある土地であることは勿論、道灌の観察力の凄さに驚く。
参考)太田道灌ゆかりの温泉地


熱川には、よく海水浴に行く。午前中の踊り子に乗って、夕方の踊り子で帰る日帰り旅行だ。都区内から日帰りできる最南端の海と勝手に思っている。伊豆の海と言えば南伊豆なのだが、泊まりで行く事がなかなか叶わない現実があるのだ。


さて、海水浴場までは急坂を下っていくのだが、途中にある料理屋が好きで、海の前にまずはビールと魚を頂くのが習慣だ。
海水浴場は、良い感じの狭い砂浜である。皆、タープやらパラソルを建て自由にやっている。
そして、周囲は温泉宿が囲う。
難点はシャワーだ。小さいのが二つのみ。基本は、周りの温泉宿に泊まるのだから仕方ない。
でも、なんだかんだ言って、熱海や今井浜の大きなビーチよりも、熱川ぐらいのコンパクトな浜が、私の趣向に会っているのだ。もし同じ様な心持ちの方が居れば、ぜひお勧めしたい浜である。


私は、まだ、熱川の宿には泊まったことがない。温泉も駅前の足湯にしか入ったことがない。185系も引退することだし、それに乗って、そろそろ泊まってみようかな。でも泊まるなら南伊豆が良いな、などと夏を考える今日この頃である。


下の画像は、小生の撮影による熱川温泉駅に入線中の185系、踊り子号。
伊豆の夏の暑さが伝われば幸いです。
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倉吉線 のよもやま [JITOZU_施設]

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参考MAP

最近、廃線ダグを追加したのだが、その効果で数々の魅力的な写真が追加された。
その中から、今回ご紹介する写真は1985年に廃線となった国鉄倉吉線の跡だ。竹と線路のコントラストが美しく、車両が今にも通過しそうな佇まいである。


Wikipediaによると、この路線の特徴は、"当線の線路等級が低く(簡易線)、30kgレールが用いられており、その後の高規格化工事も行われなかったため"運行速度が遅かった様だ。表定速度は15.1km/hらしいが、こう聞くとプレス・アイゼンバーンの本、"自転車に抜かれたコッペルたち"を思い出す。そんなスピード感だろう。


因みに、その模様を映した貴重な映像があったので紹介したい。
1984年 国鉄 倉吉線 超鈍足 DE10+旧型客車


また、現在廃線あとに倉吉鉄道記念館、が作られ、資料から当時の様子をうかがい知ることができる様で、なんとも愛されている廃線だと感じる。


私の知る、倉吉線に関係することと言えば、
所蔵書物、鉄道建築協会編"国鉄建築のあゆみ" に掲載された倉吉駅だ。
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この駅舎は、1971年12月に竣工された。そして、駅名を当初は倉吉駅、倉吉線開通後は、その名を倉吉線の打吹駅に譲り、72年から倉吉駅に戻っている。


写真の駅舎は建て替えられ残っていないが、この駅舎のファーサイドの中庸な姿は、前回取り上げた合理的モダニズムの代表格だろう。そして、現在の倉吉駅は、ガラスのファーサイドになり、これまた、他駅にも多用される手法で現代的な合理の賜物の様に思える。


話にまとまりがなくなってしまったが、もとを正せば、竹と線路のコントラストだった。
こんな場所に、一日中留まり耽りたいと感じます。


国鉄型のモダニズムと 新潟駅 [JITOZU_施設]

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参考MAP

新潟駅の万代口の駅ビルの写真だ。柔らかみと、ちょっとフィルム感があり、個人的には
好きな写真。


そして、どことなく、昔の駅ビルを感じさせる建物で、懐かしさを覚える。また、ビルには、JR東日本の子会社が運営する、CoCoLo万代が営業し、そのほかにJR東日本新潟支社、JR貨物新潟支店が入っているそうだ。


さいきの駅舎訪問さんのサイトによれば、昭和33年改築とある。
改築の程度は分からないが、昭和33年と言えば、前川國男氏による、晴海高層アパートの竣工や、丹下健三氏の香川県庁舎の落成など、日本的なモダニズムの波が押し寄せていた頃だが、この駅舎もその影響があったのだろうか?


ズラリと並んだ窓が、そう見えないこともない。もっとも、この時代の国鉄の駅舎は、どこもこんな感じであった。これは、国鉄による、合理的な設計という思想の申し子であろう。


この流れには鉄道省、建築課が絡んでいるのだが、建築雑誌、10+1 の国鉄の建築の記事に詳しい。

記事によれば、"国鉄の建築組織は(中略)その合理主義的実践から2度の日本建築学会作品賞を受賞するなど、当時はモダニズムの一翼を担う組織として認知されていた。"
とある。やはり、経費の合理=モダニズムという解釈で、影響があったことが分かる。


ところで新潟駅は、現在、在来線の立体化工事を進めているそうだ。そして、計画自体がかなり遅れているが、この駅舎もいずれ新築される様である。
50年間も見慣れた駅舎が、いつの日か無くなると思うと、地元民でも無いのに何だか、愛おしくなりそうだ。ちょっと見ておきたい心持ちなってきた、今日この頃です。





国鉄建築のあゆみ〈2〉1971~1980 (1981年)

国鉄建築のあゆみ〈2〉1971~1980 (1981年)

  • 作者: 鉄道建築協会
  • 出版社/メーカー: 鉄道建築協会
  • 発売日: 1981/05
  • メディア: -
国鉄の建築〈1960年〉 (1961年)

国鉄の建築〈1960年〉 (1961年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 有明書房
  • 発売日: 1961
  • メディア: -
国鉄建築のあゆみ―1870-1970 (1970年)

国鉄建築のあゆみ―1870-1970 (1970年)

  • 作者: 鉄道建築協会
  • 出版社/メーカー: 鉄道建築協会
  • 発売日: 1970
  • メディア: -


夢の島の頭上の 京葉線 ものがたり。 [JITOZU_施設]

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参考map
写真は、あけぼの運河を渡る京葉線の高架線である。高規格路線に相応しい写真だ。

京葉線は、新木場からこの辺りで90°転回し潮見に向かう。
なぜ、こういった線形なのか不思議であるが、それは、東京外環状線計画と関係しているのかもしれない。同計画は、中央、山手貨物、東北、常磐などを結ぶ環状貨物計画だった。


論文、"東京臨海部における鉄道整備の発展過程に関する研究"によれば、"品川ふ頭・西船橋間は昭和49年から工事に着工し、東京湾を横断する台場トンネルや埋立地の構造物などの建設が進められた。
しかし、(中略)沿線の鉄道貨物輸送需要が見込めないこと"から、旅客利用に計画を変更、ついで"(中略)新木場以西については、
越中島、八丁堀を経由し東京駅に至る都心線が昭和58年7月に同時認可となり"、京葉線として平成2年に全線開通している。


つまり、現在の、りんかい線方向に建設を進めながらも計画変更により、急遽、潮見、越中島方面へ方向転換した様だ。その過程を経て誕生したのが、この高架だろう。
そして新木場駅のホームより潮見方を眺めると、ゴゥーという独特の音を立てながら高架とトラス橋を渡り、近づいてくる、電車の様子を見ることができる。


ちょうど、この写真の様だ。
高架は、夢の島公園の木々の上を走り抜けるため、かなり遠方の車両を見ることができる。個人的には、その風景が堪らない。まるで、模型が近づいてきて本物になるという感覚だ。

そして、この写真を見て、今度は、写真の様に下から見上げて見たいと思った。





ステーションビル MI DO RI に見出すもの [JITOZU_施設]

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参照マップ

写真には、松本駅におけるE127系の勇姿である。このE127系は、1995年の誕生から現在まで、なかなか興味深い歴史を歩んでいる。
その辺りのことは別途取り上げるとして、
私が、今回、注目したのがMI DO RIである。

作者は、なぜこの構図を選んだのか?
もしかすると、1番線に留まるE351系を入れたかったのかも知れない。
いや、意図的にMI DO RIを入れたのでは。


だとすると、松本、長野に思い入れのある方だ。なぜならばステーションビルMI DO RIは、両駅の利用者にとって、馴染みの存在だからだ。


かく言う私も、長野を訪れる度に、MI DO RIをふらついてしまう。
MI DO RI長野店は、先代の駅舎の頃からあり、個人的に馴染み深い長野駅の当時の記憶が微かに蘇るからだ。


この写真の奥のビルがMI DO RI である。
何処と無く、駅舎と調和して見える。


そして、これが今の姿。


随分と隅に、追いやられてしまい、もはやステーションビルの風格は薄い。
それでも、お土産コーナーは、当地にを知り尽くしているかのごとく銘品が並ぶ。
と言うことで、私がお勧めしたいのは、MI DO RIのお土産コーナーです。


ちなみに、同グループ経営の、軽井沢駅内、名産名店プリムローズもお勧めです。



青函連絡船 ものがたり [JITOZU_施設]

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写真は、青森にて保存されているメモリアルシップ八甲田丸の勇姿である。


車両渡船として甲板に鉄道車両を積み込むアプローチが、よく分かる写真だ。よくぞ、保存してくれた!と思わせる構図だ。というのも、青函連絡船は、鉄道車両と乗客を同時に運ぶ船という世界にも稀に見るシステムで運航されていた。そのため、様々な苦労と工夫の上で運航されていたそうだ。


その歴史については、坂本幸四郎著、青函連絡船ものがたりに詳しい。本書では、乗組員だった著者が、膨大な資料を元に連絡船の歴史を紐解き語った本だ。


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特に連絡船史上最大の事故となった洞爺丸台風による事故の検証は、当事者として生々しく語るも、船員の努力と判断の正当性を主張する。


また、著者の業務は通信関係であるためか、車両の話が少なく車両好きには残念だが、青函連絡船の存在を後世に残すという役割は存分に果たしている。


私は、残念ながら青函連絡船に乗ることはできなかった。しかし、同時に廃止となった宇高連絡船には、乗ることが叶った。


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この旅と鉄道1988年冬の号は、当時、記念に購入したものである。青函連絡船のくだりには、廃止を残念に感じ乗船した青森の人々の話が掲載されている。
青函連絡船ものがたりの末章にも、青森の人々にも愛されたとあり感慨深い。


今は、新幹線の通過点でしかない青森も、当時は交通の要所であり、そのことが、青森人の誇りであったことが伺い知ることができる。


鉄道が作る文化とは、こういうことなのだと思う。



青函連絡船ものがたり (朝日文庫)

青函連絡船ものがたり (朝日文庫)

  • 作者: 坂本 幸四郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1987/12
  • メディア: ペーパーバック


湯布院駅 の 線形の妙 [JITOZU_施設]

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参照マップ
この写真は、由布院駅におけるキハ71系であろう。撮影は6月の様である。梅雨時期の由布院といった具合だろうか?雨の感じが、よく出ている。
もう一つ、私が気になったことは、地図上の九大本線の姿である。
そのまま、由布院を通らず直進した方が早いのでは?と思うが、ここで、わざわざ迂回している。地形のためかな?と思ったが、どうも違うらしい。
Yufuin Styleというサイトによると、当初、直進する予定が、地元の意向を受けた名士が計画変更させ、現在に至るとのこと。
その経緯は、上記サイトに詳しい。
そして、彼の地の名は今は、由布市たそうだ。かつては湯布院町で、駅名と温泉名は由布院という文字を使ってたそうな。

湯布院は、由布院町と湯平村の合併により誕生し、湯になったのだとか。なかなか面白い歴史がありそうな土地である。
ちなみに、参考サイトで参照している本、大分の鉄道。ちょっと気になります。。
近所では、手に入らなそうなところが、またそそられます。


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