東静岡駅 の記憶 [JITOZU_施設]
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写真は、東静岡駅改札付近だ。
島式1面2線の駅にしては、不釣り合いな構えであるが、これは近隣にある静岡県コンベンションアーツセンターのイベント時の混雑を想定したとのこと。
このコンベンションアーツセンターは、東海道新幹線の下り列車の場合静岡駅到着前に左手に見える建物である。とても主張の強い外観は、まるで巨大遺跡の様だ。
設計は磯崎新氏。上記サイトでは、ファーサイドの一部は、新幹線からの見栄も考慮されたとのことで、そう言った点では成功しているのかも知れない。個人的には、もう少し環境に佇んでいてほしいと思う。
さて、以前、所用にて当駅からタクシーに乗った際、如何にも多前歴のある運転手さんから聞いた話がある。
東静岡駅一帯は、かつて水害があり大変だったとのこと。その一つが、
七夕豪雨と呼ばれる豪雨で、人の腰ほど浸かったようだ。
実は、このタクシーの運転手さん、かつてトラックの運転手をしており、その頃に稼いだお金を投じ、ローンみ組んで家を購入したばかりだったのだ。それからというもの、夜に静岡-東京を往復、昼に静岡-大阪を往復するなど2倍働いてお金を返したとのこと。
たった10分の乗車で、こんな歴史を聞かせて頂けるなんて思いもよらなかった。
最新建築も良いけれど、歴史の伝承も大切だと感じた、ある1日の出来事であった。
十河信ニとその時代 上下巻 牧久著 ウェジ出版 [鉄道本]
この本を読むきっかけは、とあるテレビ番組で新幹線敷設の物語を見たことだ。
その中で、十河氏の辣腕振りが紹介されていた。71歳で総裁就任。新幹線計画時の予算では通らぬと半額で申請し通す、などさぞかし国鉄生え抜きで人望もあり、国鉄の処し方に慣れている方なのだろう思い氏の生き方に興味を持ったのが始まりだ。
私は本書の前に、十河氏自伝(本人は、自伝ではなく、むかし話と謙遜)である、有法子を読んだ。
そこで、初めて、40代に汚職疑惑で国鉄を放免されたことや(判決は無罪)、その後の満鉄勤めや、中国との経済的架け橋である興中公司の社長の就任などを知る。有法子では、それを付き合いのあった人と共に描いているのだが、それがまた面白い。加えて本書を読むことで、人物像に厚みを加えて理解することができた。例えば、種田虎雄氏は(大学の同級、近鉄初代社長)十河氏が放免され浪人となった際に給料袋を持参、半分置いて行ったとの話である。本書では種田氏は、さらに十河氏のために特別弁護人になったが、国鉄の局長職を辞し弁護に専念。75名の嘆願書を集め、「真の友情は存在するかという友情裁判」(上巻より)に持ち込んだと記され、より深い関係であったことがわかる。お時間のある方は、これら三冊を、まとめ読みをお勧めします。
さて、有法子が書かれた時期は、氏の総裁在任中だった。よって総裁時の話は無い。しかし本書では総裁時の話題も掲載されている。"線路を枕に討死の覚悟 "などの名言や、新幹線実現に向けた動きなど、当時の論評を交えて紹介している。(下巻)
これを読むと鉄道というのは国家プロジェクトであり、政治の道具なのだと切に感じる。
そして国鉄総裁というのは、経営者であり官僚である処し方がデリケートなポジションだと痛感する。そこを十河氏は、満州で鍛えた有法子(まだ 方法がある、もっと努力しよう)力で、新幹線プロジェクトを内外で粘り強く説明、啓蒙していきながらも、予算どりでは、慎重に政治的なタイミングと根回しを図るというやり方で、まとめていく。その進め方は、書前半の満州での苦悶を経て得たものでり、後半の活躍は、痛快とさえ感じてしまう。というのも本書は2/3を割いて、満州での出来事を開設し、さらにその大半を割いて周囲の歴史の動きを書いるからだ。個人的には総裁話は、未だか未だかと焦らされてしまったので、余計そう感じたのかもしれない。
氏の郷里である、JRの伊予西条駅には、十河信ニ記念館があるという。機会を作り、是非訪れたいと思う。
京急 空港線 の 以前と以降 [JITOZU_施設]
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写真は、天空橋駅に向かう地下道だと思わう。青いタイルが独特な世界を醸しているのだが、これは、空のイメージを表現したものらしい。
青いタイルは地下駅である当駅のホームにまで続いている。私が初めてこの駅を訪れた時は、タイルの鮮やかさと蛍光灯反射が視覚を占領し脳天がクラクラしてしまった。
そして、あまり広くない当駅のホームを快特列車が高速で通過していくわけだけど、その時は、ちょっとした身の危険を感じてしまった。
最近、駅に青色灯、飛び込み自殺8割減 東大分析という記事が話題になったが、
そう言えば天空橋駅の照明も青っぽかった記憶がある。しかし、あれは、私にとってはトランス状態を促がしていると感じてしまう。あくまで、主観ですが。。
さて、当駅に関連して今回取り上げたいのが、穴守線だ。
写真は、天空橋駅の改札を出たところに掲げられているレリーフだ。穴守線の電車とある。穴守線は、京急空港線の悲願の歴史の序章であった。
その歴史は、ネコのシュレーディンガーさんのサイトに詳しい。
地下延伸以前は、戦時休止や米軍による空港接収の影響で貨物転用。京急返還後は再三にわたる空港への延伸も、お役所から門前払い。しかし、モノレールによる輸送力不足を補うため、ようやく認可が下りたのが98年ということらしい。
そして今、大田区を中心とした蒲蒲線構想が動き始めている。
先のレリーフには、寄贈元として京急建設、東急建設の名前があるが、そこから、蒲蒲線当事者の京急、東急の並々ならぬ気迫を感じるのは、私だけだろうか?
ということで、まだまだ穴守線界隈から目が離せないですね。
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京阪700形 の ルーツを知る [JITOZU_車両]
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京阪700形のトーマスラッピング車である。
Wikipedia
によると700形は、350形や500形の車体を流用して作られた車両様だ。
さらに、追っていくと、当の500形は、260型の流用であることが分かった。
以下は、wikiの260型ページからの転載。
* 280 - 1968年7月23日竣工、1997年10月12日廃車。(解体)
* 281 - 1968年7月23日竣工、1981年6月30日改造され 505 に改番、1993年5月27日廃車。(709へ車体流用)[10]
* 282 - 1968年7月29日竣工、1981年6月30日改造され 506 に改番、1993年5月27日廃車。(710へ車体流用)
* 283 - 1968年7月29日竣工、1979年6月12日改造され 503 に改番、1993年2月13日廃車。(707へ車体流用)
* 284 - 1968年11月18日竣工、1979年6月12日改造され 504 に改番、1993年2月13日廃車。(708へ車体流用)
* 285 - 1968年11月18日竣工、1979年3月29日改造され 501 に改番、1992年11月11日廃車。(705へ車体流用)
* 286 - 1968年11月27日竣工、1979年3月29日改造され 502 に改番、1992年11月11日廃車。(706へ車体流用)
ちなみに、350形からの供出もありそれらは361-360・359-358が700形701 - 704へ
とのことだが、いずれにしても種車から巡ると700形は、50年近い車齢であることが分かる。
50年というと、どれ位の年数なのだろうか?
試しに、250型の生まれた1968年近辺のブルーリボン賞、ローレル賞を調べて見た。
ブルーリボン賞
1967年 近鉄 18200系
1968年 国鉄 581系
1969年 国鉄 EF66形
ローレル賞
1067年 長電0系
1968年 該当なし
1969年 東京都交通局 6000系
いずれも、
鉄道友の会のサイトより
この中で、現在も頑張っているのはEF66のみ。それを思うと700形もオールドエイジ枠での頑張りであることが分かる。
一形式に固執するのではなく、700形の様にを変えながら残っていくといことは、鉄道車両の一つのありかたと思う。
例えば、最近では都電7000形が7700形にリニューアルして活躍しているが、とても鉄道ファンとしても、利用者としても納得のいくリノベーションであった。
新車ばかりでなく、こしうした車両も増えれば、乗る楽しみが増えることと思う。
700形のような全国のリニューアル車の今後の活躍を祈るばかりである。